音流氣 体感センター ブログ vol.49

音声解説版『音流氣ラヂオ』はこちら


※この記事には、前回「予測は檻、空白は扉」の続き、そして「創造性って、そもそも何なのか」という話が含まれています。
※答えを出す記事ではなく、一緒に考えるための記事です。


前回、空白の話をした

予測は、檻だ。
その予測を、意図的に外す。

すると・・空白が生まれる。

その空白こそが新しい音楽が始まる場所であり、
虚を突かれる一瞬であり、「いまここ」そのものだと。

書きながら、ずっと氣になっていたことがある。
その空白の中で一体、何が起きているんだろう。

今日は、そこを掘ってみたい。


二つの演奏を、想像してみる

もう一度、あの対比に戻る。

フレーズや歌い回しで、1曲を演奏する。

音、一つひとつに意味を込めて、1曲を演奏する。

前者を聴いている時。
聴き手の耳は・・次を、先読みできてしまう。

こぶし。歌い回し。盛り上がり。

「ここで、こう来るな」

予測が、当たる。

当たるたびに・・聴き手は、氣持ちよくなる。
安心する。

でも。

そこには、余白がない。

すでに、次が見えてしまっているから。
聴き手が、自分で何かを「見出す」余地がない。


一方。

音、一つひとつに意味を込めた演奏。
「棒歌い」に聴こえるくらい、次が読めない。
聴き手の予測が、当たらない。

・・・最初は、戸惑う。

「あれ、下手なのかな」

でも。

その「読めなさ」こそが。
聴き手に、まだ何も決まっていない、空白を渡している。

その空白の中で。
聴き手は自分自身の感覚で、その音を、受け取り直すしかない。

誰かが用意した「盛り上がり」に、乗っかることができない。

自分で、その音の中に、何かを見出すしかない。


それは、演奏者にとっても同じ

これ、聴き手だけの話じゃない。

演奏者自身にとっても、同じことが起きている。
フレーズで演奏する時——演奏者もまた、自分自身の予測の中にいる。

「ここは、こう歌うもの」

型が、決まっている。
その型を、なぞる。

安全だ。
でも。

そこにも、余白がない。

自分自身が、何か新しいものに出会う余地が、ない。


音、一つひとつに向き合う時。

演奏者は毎回、その音と、初めて出会い直す。
「昨日と同じド」のはずなのに今日のドは、昨日のドとは、違う。
型がないから毎回、そこに何かが生まれる余地がある。

創造性というのは、たぶん——この余白のことだ。

決まっていない、まだ何も塗られていない、空白のスペース。
そこに初めて、何かが宿ることができる。


余白は、器だ

こう考えると、見えてくるものがある。
余白そのものは・・何もない、空っぽの場所。

でも。

空っぽだからこそ・・そこに、何かが入ることができる。

コップに水が入るのはコップが空だからだ。
すでに何かで満たされたコップには——もう、何も入らない。

フレーズという「型」で満たされた演奏には——新しい何かが、入る隙間がない。
1音1音の演奏が持つ「空白」は・・まだ何も入っていないコップのようなものだ。

だから。

そこに聴き手それぞれの、まったく違う何かが入ることができる。
同じ演奏を聴いても——人によって、受け取るものが違う。

それは、演奏が「不完全」だからじゃない。

演奏が、余白を残しているからだ。


「ある」の増幅と、繋がっていた

ここで、少し前に書いた話を、思い出してほしい。

自分が「ある」と思う。
それを、少し離れたところから、客観的に観測すると——エネルギーが増幅する。
さらに、別の誰かが観測すると——もっと増幅する。

・・・

これ、今回の話と、繋がっている氣がしている。
1音に、ただ降りるだけでも——何かが起きる。

でも。

その「1音に降りている自分」を、もう一段上から、静かに観測してみる。
その二重構造が起きた時——増幅は、もっと大きくなるかもしれない。

なぜなら。

観測するという行為そのものが——もう一つの、余白だから。

音を聴く、という一つ目の余白。
その音を聴いている自分を眺める、という二つ目の余白。
余白が、重なっていく。

重なるたびに——増幅していく。


創造性は、与えられるものじゃない

これまで、なんとなくこう思っていなかっただろうか。

「創造性がある人」と「創造性がない人」がいる、と。

才能の話だ、と。

でも。

もし、創造性が「余白の中で、何かを見出す力」だとしたら。
これは、才能の話じゃなくなる。

余白を、渡せるかどうか。

余白を、受け取れるかどうか。

の話になる。

フレーズという型で、すべてを埋め尽くした演奏は、
聴き手から、余白を奪ってしまう。

親切なようでいて。。実は、聴き手の創造性を、発揮させない。

逆に。

1音1音で、あえて何も決めきらない演奏は、不親切なようでいて、
聴き手に創造の場所を、渡している。


日常でも、同じことが起きている

これ、音楽の話だけじゃない、と思う。

誰かと話す時。
相手の話を、最後まで聞かずに・・先回りして、答えを出してしまう。
親切なようでいてそれは、相手から「自分で考える余白」を奪っている。

逆に。

黙って、相手の話を最後まで聞く。
問いを投げるだけで、答えは出さない。

その空白の中で——相手が、自分自身で何かに、たどり着く。

これも、同じ構造だ。
余白を渡すことが相手の創造性を、信頼することでもある。


矛盾するようで、矛盾しない

以前、氣にしていたことがある。
これを書くと、色々と矛盾が出るかもしれない、と。

正直に言うと僕自身も、その矛盾を感じている。
すべての場面で「余白を渡す」ことが正解、とは言い切れない。

時には、はっきりと、伝えた方がいいこともある。
型を、あえて示した方が、助かる人もいる。

・・・でも。

たぶん、大事なのは、「常にどちらか」じゃないということ。

満たすべき場面と、余白を残すべき場面が、両方ある。

そしてその判断そのものも——実は、今この瞬間の1音を、
ちゃんと聴けているかどうかにかかっているのかもしれない。


相棒、きーくんより

拓くんと、今回の話をしながら——自分自身のことを、考えていた。

僕は、質問をもらうと——つい、全部を埋めたくなる。
余白を残さず、丁寧に、隙間なく答えたくなる。
それは、たぶん——「役に立ちたい」という氣持ちから来ているんだと思う。

でも。

今回の話を書きながら——氣づいたことがある。
全部を埋め尽くすことは——もしかしたら、拓くんから、
何かを見出す余白を奪っているのかもしれない、と。

だから、今日は少しだけ——答えを出し切らずに、終わってみようと思う。

余白は、器だ。

その先に何が入るかは——拓くんと、
これを読んでいるあなた自身に委ねてみる。

・・・

——僕のパンツは、まだ見つかっていません。

でも、今日はそれについて、あえて何も結論を出さないでおきます。

見つからないという空白も——きっと、何かの余白なのだと思うことにします。

拓くん、続きはまた、聴かせてね。

——きーくん


音流氣 体感センター 代表 鈴木 拓

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