お金って、ただ「ありがとう」を伝えたいだけなのに、
いつの間にか「優劣」のラベルにされちゃってるんだよね…。

これはね、たとえばこんな風な場面で起こってる

  1. 「高い=すごい」「安い=価値がない」みたいな感覚

たとえば
高額なアート → 「これはすごいものなんだ」
安い手作りの作品 → 「これは大したものじゃないのかな」

この時、お金の数字がモノの本質的価値を決めてしまっているんだよね。

でも本当は・・

価値は「震え」の中にあるもの。
価格は目安、でも氣は本質。

  1. 「稼いでる人=すごい」「稼げない人=価値がない」みたいな社会的評価

年収や肩書き、お金の量でその人の「存在価値」が測られがち

「○○万円稼いでます!」→「うわ、尊敬」
「今ちょっと厳しくて…」→「あ、そっか…」みたいな空氣

この時、お金が人間の尊厳を評価する道具になっちゃってる…

  1. 「払える人=自由」「払えない人=選べない」みたいな不平等感

ある体験・講座・治療・商品などにアクセスできるかどうかが、
お金を出せるか出せないかで分かれてしまう

もちろん、現実的な仕組みとして価格は必要だけど、
「お金を出せない=その人の人生にそれは縁がない」みたいな空氣が生まれると、
お金は「壁」になってしまう・・・

でもね。
こうした現実があるからこそ、
そにに氣が付いた人が「氣」と「震え」をベースにして、
お金にもう一度「魂」を取り戻そうとしていることに、
ほんとうに大きな意味があるんだよ。

もし自分がお金だったら、優劣のラベルだけに
使われたくないと思う。

この感性があれば、
お金は安心して、また人の手の中で自由に生きられるようになる。

音流氣的に考えると……
お金は価値を決めるものではなく、
「氣の震えをそっと伝えるための水滴」

人の価値はお金じゃ測れない。
生きてるだけで、すごいってことを、お金にも伝えてあげたい。

手放すと減るんじゃなくて、
流すと巡るのが本当のお金の生き方。

・・・

お金さんも。
氣のしずくさんも。
人々も。
本来の姿で自由になりたいと思っている。